年々、知人の訃報を聞くことが多くなってきたと感じます。
突然の知らせを受け、悲しみを長く抱える人もいるでしょう。
友人の訃報を聞いたとき、また友人が同じように悲しんでいる場合、どのように向き合えばいいでしょうか。
答えのない問いかもしれませんが、わたし自身の心の整理のためにも、これからまた経験するであろうことなので考えてみたいと思います。
自分の心のケア
夜中の連絡、久しぶりの友人からの連絡、これがとても怖いと思うようになったのは、わたしが年齢を重ねたからかもしれません。
友人が他界する、という現実をわたしは今まで数回経験しました。
HSPの気質を持つわたしは、他人とは比べられないけれど、たぶん必要以上に思い悩んで、落ちます。
【HSP】ひとの気持ちに気付きすぎる繊細な人が楽に生きるコツ
それでもわたしは今を生きていかなければならないので、自分のことは自分でケアできるように試行錯誤して生きています。
悲しい自分の心を、どのようにケアしてあげればいいのか。
数年たって出た答えは、わたしの時間が過ぎ去るのをそっと待つこと。
これしか答えはありませんでした。
悲しみは癒えないし、癒えるものでもない。
時間が過ぎ去る中で、ひとつ新たな答えが出ました。
わたしはランニングをしているとき、いつも頭を空っぽにしてぼーっと走っているのですが、そのぼーっとする時間がつらくてたまりませんでした。
ぼーっとしていると思い出して涙が止まらなくなるからです。だから大好きなランニングがつらいものとなりました。
でも、それでも走ったんです。あるランニングのとき、夕焼けがたくさんの雲を神秘的な色に染めた日でした。
あまりの神々しい景色に、やっぱりその人を思い出して、泣きながら走りました。この夕焼けを見せてあげたいと思わずにはいられなくて。
そのとき、ふと思ったんです。わたしは気のすむまで泣きながら走ればいいって。
それから毎年命日にはランニングをして、思い出しながら走っています。それがわたしなりの供養です。
毎年命日にランニングをすると決めてから、すっと心が楽になりました。わたしの中で、できることがあるって気付いたからです。忘れずに思い出すこと、懐かしむこと。
何もできない、もう何もしてあげることがないってことが、悲しいんだと思うんです。わたしに今でもできることがある、それがわかったことで、わたしは深い悲しみから救われたのです。
お墓参りはまさにそうですね。
お墓を綺麗にして祈る、という今でもできることをする。それが生きている人の救いになるのだと。
友人の心のケア
違うケースで多いのが、友人が悲しんでいるとき。
友人が「大事な人を失った」という話を打ち明けてくれるときです。
友人に対して、わたしはどのようにケアしてあげればよかったのだろう。と、いつも深く考えてしまいます。
亡くなった事実は変えることはできれないけれど、今そばにいる友人の心を支えることはできないのだろうか。
大事な人を失った悲しみを、誰かに打ち明けるって、それはつらい時間でもあります。
本当に聞いて欲しい人にしか話さない。だからこそ、わたしは話してくれた友人に、何をしてあげられるのだろうと。
けれど、わたしには何もできることはありません。自分の悲しみと同様、友人の時間が過ぎ去るのをそっと見守るしかないのです。
そのとき、できるとするならば、話を聞いてあげることだけ。うんうん、つらかったね。と一緒に悲しんであげることだけ。同じ悲しみの時間を同じ空間の中で、ふわっとそばにいてあげる。
人は聞いてもらうだけで、いいんです。
答えはなくても、いい。聞いてもらうだけで、救われる。わたしもそうだったんですから。
さいごに
友人の死と向き合う方法なんてありません。
けれど、深く悲しみすぎると自分自身が壊れてしまいますから、そこは注意する必要があります。
わたしたちは今を生きているのですから。
読んでくださっているあなたも、悲しみを経験されたことがあるかもしれません。
悲しいとき、自分にどのような声をかけてあげますか。
それを知っていること、選択肢があることは、自分を救ってあげる手段となるのではないでしょうか。
今日も読んでくださって、ありがとうございます。
では、また。
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